神奈川オルタナティブ協議会  【オルかな】公式ブログ

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6月11日㈰開催・サードオピニオン会in二俣川のご報告

去る6月11日(日曜日)、【オルかな】主催のサードオピニオン会in二俣川が開催され、
精神疾患・精神医療や向精神薬の被害当事者およびその家族、支援者の方々に
ご参加をいただきました。当日の様子をご紹介します。

冒頭、MCの中川聡(全国オルタナティブ協議会代表)が近況を報告しました。
・地方で支援している親子の、息子が精神科病院に入院中(医療保護入院)。
保護者となっている親が余命宣告を受けている。この場合、遺産相続がどうなるか心配。
・この件で病院とグループホームの中間のような場所や支援が欲しいと思ったが、
ドイツにはそのような人たちが暮らす集落として、クラインガルテンと呼ばれる
畑つきの家が全国で50万戸あり、そこでは訪問サービスを受けながら生活できる
ようになっている。
・母が要介護状態。夜間眠れずに15分おきに呼ばれる。
母に寝てもらうため訪問医に相談してリスパダール液を使用。効果はてきめんだったが、
強すぎたため使用中止。週末はショートステイを利用している。
・高齢者は水分が少ないと不穏になるようだ。脱水に注意したほうがよい。
酸化マグネシウムが便秘薬として広く使用されているが、脱水になりやすいので注意。
・高齢者も精神障害者も、在宅サービスが細分化されており、家事や外出付き添いなど
やることがないと使えない。だたの「見守り」のメニューはない。あると良いのにと思う。

報告の後、参加者の方々による対話へと入っていきました。

会場での発言から(大意):
・医師との関係性に悩んている。以前薬について本人にいろいろと言ってしまった。
・薬を飲む・飲まないどちらにしても、本人が納得していないと恨まれる。
横浜市のとある区が、ここ数年で精神障碍者の死亡が極端に多いと聞いた。
・精神障碍者の死亡は報道されていないだけで、じっさい全国的に死亡者は多い。
ドーパミン遮断の薬は、筋肉に影響がある。精神科病院では誤嚥性肺炎での死亡が多い。
・家族が統合失調症で、診察に同行している。リチウムは危険な薬と聞いて
主治医に話したら「じゃあ、やめてみましょう」とすんなり受け入れられた。
・炭酸リチウムは最終的に本人の意志で断薬したが、何の変化もなかった。
・時々思いつきで薬をやめてみると、服薬しているときにはしばしばあった幻覚・幻聴が
なくなるという経験をした。
ジプレキサを飲んでいたら1日4時間しか活動できない。飲んでいなければ早寝早起き。
・かつてジプレキサ一気に止めたとき、その1週間後に朝起き上がれなくなることがあった。
そういうことは起こり得るので、あわてて再服薬しないほうがいい。
・減薬のときは、ミリ数多いもの=力価が低いものをあとに残すのがコツ。
100ミリ単位だと少しずつ減らせるが、1ミリ単位だとそれは難しいので。
精神疾患の名前(病名)にとくに意味はない、とりあえず付けたというだけのもの。
・貧困支援の仕事で外国人の方を担当しているが、入管法の改悪に危機感を抱いている。
外国人は在留資格により生活保護などの制度が使えないために民間の支援団体が引き受けている。寄付金などで賄っている。
太宰治(小説家)が1930年代に鎮痛剤中毒で精神病院に入院していた、その手記を
読んだことがある。戦後の入水自殺の背景にも薬物がからんでいるのでは。
芥川龍之介の自殺にも睡眠薬中毒が影響している。
・米ケネディ大統領の姪は統合失調症で電気ショックやロボトミーも受けていた。
大統領の身内にそういうことがあったためにアメリカの改革につながった。
・治療で抑えられて「落ち着く」のと元気を出して「落ち着く」のとは違う。
言葉の解釈は文脈によってさまざま。
・いずれにしても支援は本人と相談しながら、こうすれば上手くいくというのはない。
発達障害の方の支援で認知行動療法の学習会などをしていたが、
薬のことで悩んでいる方がいて、それでこちらに参加した。
その方は断薬して、通っていた作業所のスタッフになった。
そして結婚、妊娠。
・出産するのに過去の病名がリスクになる。出産する病院を見つけるのが大変だったと言っていた。
精神科併設している総合病院じゃないとダメとか言われたと。
若い女性が精神科の診断を受けて薬を飲むということの問題は大きい。
催奇性の高いリチウムを飲んでいる子もたくさんいて、その後パートナーができて妊娠・出産を希望してもリスクになる。それを考えず、本人にも伝えずに医師が簡単に処方しているように見える。
・通院・服薬を止められたとしても何かあれば福祉の支援チームが発動してしまい、見守りという名の監視がはじまる。
・当事者は子どもへの虐待リスクが高いということになっていて、
ちゃんと治療を受けているか、出産後は産後うつじゃないか、育児ができているかと監視が続く。
・視力障碍があるが、一人暮らしをしており、最近引っ越した。精神科病院に違法に
入院させられたことがあるが、自分では薬が必要だと思ったことは一回もない。
・三橋さんのYouTube寝る前に聞いている。子どもの薬の話など関心を持っている。
・家族会で向精神薬についての勉強会を提案しても、見事なまでに何の反応もない。
・母親がショートステイにいる。なんと個室で、しかも一泊1,600円。
高齢者福祉は充実している。
・精神科の訪問看護は患者とキャッチボールしたりドライブしたり、と
やり過ぎの感がある。抱え込み依存関係にならないようにすべきだと思う。



津軽』『斜陽』『人間失格』などの作品で知られる昭和の文豪・太宰治
今回のサードオピニオン会でも話題に登りましたが、太宰は
手術の際に処方されたことをきっかけに鎮痛剤パビナールの依存症となり、
その「治療」のためとして東京武蔵野病院に入院していたことがあります。
時期は1936年(昭和11年)の10月から11月。
その時の体験を1937年に発表した昨品『Human Lost』で書き残しています。

太宰治『Human Lost』より********************************************************************************

昭和11年10月25日:私営脳病院のトリック。
一、この病棟、患者十五名ほどの中、三分の二は、ふつうの人格者だ。
他人の財をかすめる者、又、かすめむとする者、ひとりもなかった。
人を信じすぎて、ぶちこまれた。
一、医師は、決して退院の日を教えぬ。確言せぬのだ。底知れず、言を左右にする。
一、新入院の者ある時には、必ず、二階の見はらしよき一室に寝かせ、
電球もあかるきものとつけかえ、そうして、附き添って来た家族の者を、
やや、安心させて、あくる日、院長、二階は未だ許可とってないから、
と下の陰気な十五名ほどの患者と同じの病棟へ投じる。
一、ちくおんき慰安。私は、はじめの日、腹から感謝して泣いてしまった。
新入の患者あるごとに、ちくおんき、高田浩吉、はじめる如し。
一、事務所のほうからは、決して保証人へ来いと電話せぬ。
むこうのきびしく、さいそくせぬうちは、永遠に黙している。
たいてい、二年、三年放し飼い。みんな、出ること許ばかり考えている。
一、外部との通信、全部没収。
一、見舞い絶対に謝絶、若しくは時間定めて看守立ち合い。
一、その他、たくさんある。思い出し次第、書きつづける。
忘れねばこそ、思い出さずそろ、か。
(この日、退院の約束、断腸のことどもあり、自動車の音、三十も、四十も、はては、
飛行機の爆音、牛車、自転車のきしりにさえ胸やぶれる思い。)
「出してくれ!」「やかまし!」どしんのもの音ありて、秋の日あえなく暮れむとす。

昭和11年10月26日
営利目的の病院ゆえ、あらゆる手段にて患者の退院はばむが、これ、院主、院長、医師、
看護婦、看守のはてまで、おのおの天職なりと、きびしく固く信じている様子である。
悪の数々、目おおえども、耳ふさげども、壁のすきま、鉄格子の窓、
四方八方よりひそひそ忍びいる様、春の風の如く、むしろ快し。
院主(出資者)の訓辞、かの説教強盗のそれより、少し声やさしく、温顔なるのみ。
内容、もとより、底知れぬトリックの沼。しかも直接に、人のいのちを奪うトリック。
病院では、死骸など、飼い犬死にたるよりも、さわがず、思わず、噂せず。
壁塗り左官のかけ梯子より落ちしものの左腕の肉、煮て食いし話、一看守の語るところ、
信ずべきふし在り。再び、かの、ひらひらの金魚を思う。
「人権」なる言葉を思い出す。ここの患者すべて、人の資格はがれ落されている。***********************************************************************************

太宰はこのときの体験について、友人の山岸外史には次のように語っていました。

山岸外史「太宰と武蔵野病院」『太宰治研究  1』(奥野健男編、筑摩書房)より***********************************************************************************
・・・・・・入院した晩だけは応接室の二階の上等な部屋だった。
翌日の午後、二人の男に案内され、長い廊下を通り、一番奥の、
それも便所のすぐ前の部屋にきて、いきなり背中を突かれ入れられた。
そして外からガチャンと鍵をかけられた。小便のひどい匂いがプンプン鼻を刺激した。
これ以上の侮辱はない、人権蹂躙ですよ・・・・・・。
大男は薄笑いして小窓から内部をちらりと覗いただけで、
腰の鍵の束をガチャガチャ鳴らしながら去っていった。
無残だったが相手が厚い扉ではどうしようもなかった。腹が煮えくり返った。
自分が人間として扱われていないことが判った時、嗚咽し、頭髪をかきむしった・・・・・・と。*****************************************************************************************

改革派、人権派精神科医だった広田伊蘇夫は著書『立法百年史』(批評社)において
上記の「Human Lost」、太宰が友人・山岸に語った言葉を引用しつつ、こう述べています。*****************************************************************************************
当時の我が国の精神病院の実態が、すべて太宰が記すようなものだったとは云えまい。
が、東京武蔵野病院は、その歴史も古く、現在もなお武蔵野の一角にあり、名の通った
精神病院だったところからすれば、太宰の体験はとりたてて特異的ともみえない。
鋭い人権感覚をもった文士の目にとって、[人間として扱われていないこと]への無念は、
後世に書き残すべきものとして映ったにちがいない。
いうならば、精神病院という施設は、つねに[人権]を問い続けるべき原点のひとつである
との認識を、太宰はすでに1936年の時点で書き記していたのである。*****************************************************************************************

太宰が入院していた当時の日本(大日本帝国)は憲法も制度も法律も、現在とは
大きく異なりますが、精神医療の本質という点ではあまり変わるところがないのでは
ないでしょうか。
「脳病院」という表現からも、精神疾患は脳の病気であるとする今日の生物学的精神医学
に通じる発想はこの時代においても支配的であったと考えられます。
「営利目的の病院ゆえ、あらゆる手段にて患者の退院はばむ」という一文はまさしく
精神科病院のビジネスモデル、本質を簡潔明瞭に言い表したものであり、太宰の鋭い
洞察力の産物です。
「Human Lost」を「難解」と評する向きもあるようですが、果たしてそうでしょうか。
精神医療の実態を知ることなく、本作だけを単体で読んだらそのような感想になる
のかもしれません。しかし、サードオピニオン会に集う人々であれば、むしろ共感を
持って読める作品ではないかと思います。

(オルかな事務局 黒柳)